チュニジア17 フェニキア人とローマ人の遺跡カルタゴ

2020年4月28日火曜日

アフリカ チュニジア

3月3日8時20分、チュニスのホテルを出発しカルタゴに向かいました。チュニスに3連泊なので朝早い出発でも楽です。
この日はお天気が目まぐるしく変わりました🌞⛅☔
それでなくてもチュニジアは朝晩だけでなく日陰と陽との温度差が激しく上着は手放せません。
バスの車窓から2009年に日本のODAにより大成建設と鹿島が建設したラデス・ラグレット橋を見ました。日本の企業は他にも火力発電やバルドー博物館などチュニジアに貢献しています。
8:50ビュルサの丘(Byrsa Hill)に到着。
チュニス郊外にあるカルタゴは紀元前9世紀フェニキア人の都市国家として造られ、海上貿易、そして農業を中心に栄えた。
南部沿岸に勢力を拡大していった。しかし領土を拡大していくローマと3回にわたり戦うが敗北し、カルタゴの町は徹底的に破壊された。
BC1世紀ローマはカルタゴを再建、2世紀にはアレキサンドリアと並ぶローマ帝国の大都市となった。
7世紀にアラブが侵入し、首都はケロアンに移る。
8世紀、チュニスが開発の採石場となって破壊される。
フランス時代にはチェニス郊外の高級住宅地となる。20世紀になり発掘保存が始まる。
すごいざっくりまとめてみた😅
要するに遺跡を見る時にフェニキア人の遺跡かローマ人の遺跡かを思い起こすことが大事。
一番最初に目に飛び込んでくるのはアクロポリウム(L'Acropolium サン・ルイ教会)。
丘の上に礼拝堂が置かれたのは1840年で、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられた。
1270年の十字軍遠征に参加しチュニジア付近の包囲戦で亡くなったフランス国王ルイ9世に捧げる為に造られた。
きれいだなぁと思ったら新しいものだった。チュニジア独立後はコンサートホール、催事会場として使われている。
ビュルサの丘(Byrsa Hill)からはチェニス湾とボン岬が見える。
みんなが欲しがる場所は昔も今も良いところです。
添乗員さん登場! ビュルサの丘はローマ時代に上を削り平にしカルタゴの町を埋めて作り直した。
手すりの下が拡張され埋もれていたフェニキア人のカルタゴの町。
 住居跡
当時の間取りが判る貴重な遺跡
振り返ると上に残るのはローマ人の街、結局はこちらも遺跡になってしまいました。2,000年以上前の人々も美しいチェニス湾の景色にうっとりしていたことでしょう。
ローマ人の住居跡(Villas Romaines)に移動。 裕福な古代ローマ人の生活が垣間見られる遺跡です。現在もこのあたりはチュニジアで一番の高級住宅街。アフリカとは思えない雰囲気です。
ローマ人の住居跡は家一軒ではなく、ローマ人達の家並みが残っているところです。ここにはワイン製造の遺跡が多く残っています。写真はぶどう圧搾場、写真右端に赤でMagonの立て札があります。
Magon(マゴン)は古代カルタゴ時代、農学者であり醸造学者だった人物。彼のぶどう栽培の技術や複雑な仕込み方を含む農業専門書「マゴンの農業書」全28巻は、フェニキア語からラテン語、ギリシア語に翻訳されてヨーロッパに広まり、ワインがローマに伝えられたそうです。
ワイン生産は紀元前146年にローマ帝国がカルタゴを占領した後も続いた。
ちょっとしたところにもモザイクがあり昔も高級住宅街だったのが分かります。
左のチュニジアの旗がたくさん見えるところは大統領官邸、遠くに見える山の中で一番高い山がブーコニール山(Jebel Boukornine)。さすが一等地、絶景です。
大統領官邸はフランスがつけた隠しマイクがいたる所に付いているのでジャスミン革命以降の大統領はここには住んでいないそうです。警備は今も厳重で近くで写真を撮ることは禁止されています。
思っていた以上に広く草花が綺麗でした。
ヴォリエール(鳥かご)の別荘(Casa della voliera)
鳥のモザイクがたくさん発見されたのでこう呼ばれている。
鳥以外にもたくさんのモザイクが残されている。
この家からの景色は最高! この彫刻から顔を出して順番に記念撮影! これはお決まりですね📷
ローマ時代の敷石、近年「マゴンの道」として修復された。
チュニジア一番の高級住宅街、私達以外は歩いている人はいない。セレブは高級車で移動でしょうね。
次に訪れたのはフェニキア人の遺跡、トフェ(Tophet)。
幼児犠牲の墓地?
BC7世紀からBC2世紀まで7つの地層が重なる。遺灰壺が埋められうえに墓碑を置く。
BC4世紀以降、約7,000体の6ヶ月から4歳ぐらいまでの子供の遺灰が埋葬されていた。
墓碑(ステラ)にはフェニキアの火の神バール・ハモンや天と豊穣の神タニトなど幼児を生贄に捧げた神のシンボルが浮き彫りされている・・・ローマ人の残した記述以外の資料が無く明らかではない。ローマ人が記したということは悪口だったかもしれない、幼児死亡率の高かった時代にこんなにたくさんの子供を生贄にすることは考えにくい。早くに亡くなった子供をひとつの墓地に埋葬して祈りを捧げたのではという説もある。
化野念仏寺を思い浮かべながら、そうであって欲しいと思った。
カルタゴ港跡、写真は円形の軍港、直径300m。
中央の島には船の修理工房、格納庫、総督邸があった。
BC5世紀、フェニキア時代に造られ、ローマ時代もほぼそのまま使われた。
港だったと言われても池にしか見えないので航空写真を見てみた。本当に海への入り口があった!
次はテルマエ・ロマエです♨